廣岡家に残された当時の暮らしぶりを伝える美術品や調度品、古文書の貴重な文化財の修復保存と研究の為のプロジェクト

江戸時代に、三井、鴻池ともに名を連ねた「加島屋(かじまや)」という豪商をご存知でしょうか?

この名前だけでは、ピンとくる方は少ないかも知れませんが、2015年に放映された連続テレビ小説のモデルとなった家と申せば思い当たる方もいらっしゃるかもしれません。私、西野久子は、第10代廣岡久右衛門の孫として1959年に生まれ、久右衛門の1文字を取って「久子」と名付けられました。

江戸時代の豪商、加島屋(廣岡家)は現在の大同生命に引き継がれています。一方、廣岡家は第10代廣岡久右衛門正直を最後に絶えました。尚、廣岡家は連続テレビ小説のモデルとされた家ですが、その主人公のモデルとなった廣岡浅子さんが嫁いだのは分家の廣岡五兵衛家で、私は本家の廣岡久右衛門家の子孫です。浅子さんと血の繋がりはありません。浅子さんの夫の弟、9代目久右衛門正秋が私の曾祖父です。

今回、この廣岡家に残された文化財の中でも、特に傷みの激しい「阿弥陀如来立像」と掛軸(かけじく)「方便法身像(良如筆)」を修復するためのプロジェクトを立ち上げました。

※廣岡家については以下をご参照下さい。
「豪商の金融史」高槻 泰郎 (著, 編集)
大阪くらしの今昔館(特別展図録)「商都大坂の豪商・加島屋 あきない町家くらし」

豪商「加島屋」の歴史的な資料を百年先に残したい!

①阿弥陀如来立像(応急修復)

阿弥陀如来像は廣岡家の仏壇にあったものです。祖父母亡き後は、伯母が仏壇を守っていました。1995年の阪神大震災時、近所に住んでいた私が伯母のマンションへ駆けつけると、マンションは全壊状態。お仏像は仏壇から飛び出して床に転がっていました。まだ余震が続く中、近くに転がっていた衣装ケースにお仏像を入れて運び出しました。今でも不思議ですが、本当にピッタリサイズの衣装ケースにタオルとシーツも入っていて、仏様が「コレで運び出せ!」と指示したに違いないと思いました。しかし、無事に運び出したものの、お仏像は右足甲の破損で自立出来なくなりました。

あれから27年、2022年夏に大阪くらしの今昔館特別展「商都大坂の豪商・加島屋 あきない町家くらし」で展示して頂くことになり、調査の結果、約800年前の仏像ということが分かりました。私は約800年生き残った仏様の強運に感動しましたが、壁に縛り付けられた状態での展示になり、仏様に大変申し訳なく心が痛みました。

◆ 阿弥陀如来立像

〈作品について〉

穏やかな瞼の表現にみられるように「彫り込みすぎない彫り方」をされていること、目に水晶(玉眼)を入れずに彫刻で表現(彫眼)されていること、額部分の髪の生え際が直線的に表現されていることなどから、平安時代後期の仏像の特徴を持っています。

後世に、オリジナルの上から下地層・金箔を新たに施す修理がされている可能性があり若干表現が甘くなっていると思われますが、製作当初の雰囲気をよく残しています。

台座と光背は江戸時代の製作と思われます。当時の所蔵家の財力を背景として、荘厳のために贅を尽くして製作された様子が伺えます。

〈今回の応急修復について〉

  • 乾いた筆で表面の汚れを除去
  • 右足先の部材のずれた部材をいったん取り外し、膠水溶液で所定の位置に再接着
  • 台座の柄穴に部材が残存しており、摘出したところ、後世に施されたと思われる柄の延長材であることが判明した。これを膠水溶液で所定の位置に再接着し、安定して台座に据え付けることが出来るようにする
  • 右手欠損部については、将来の文化材指定等を見据え、今回は部材を補うことをせず、現状のままとする
  • ・光背の右下一条については、部材が細く、解体しない状態では再接着が困難である為、今回は現状のままとする
  • ・光背の雲模様装飾の一部が脱落している箇所は、似寄りの針金を用いて所定の位置に取り付ける

〈今後の本格的な修理について〉

  • 指、袖端部の欠損の補填、手首の角度調整(類例調査、学識経験者の助言必要)
  • 全体的な剥落止め
  • 光背の分解と、落下部材の再接着
  • ほぞ穴の調整(遊びを少なくし、像及び光背のさらなる自立安定を図る)
  • 後世の修理の際に施された下地が漆ではなく胡粉などの場合は、後世施工の層を取り除いてオリジナル層を出すことも可能。但し、下地に漆が用いられている場合は、除去しようとするとオリジナルの層まで剥がれる可能性がある為、除去せず、表面の剥落止めにとどめる(要調査)

以上、(株)光影堂様の見積書より引用

平安時代後期から鎌倉時代前期(12世紀後半~13世紀前半)の制作。穏やかで優しい表情、頬の膨らんだ丸みのある顔立ち、浅く彫られた衣文様の表現、正面から側面へゆったりと展開する曲面構成などに、定朝様の特徴がみられる。横顔にもこの時代の仏像らしい気品が漂っている。全体に襞(ひだ)の作りが大きくゆったりしていて、おおらかな印象を受ける。

おそらく平安鎌倉の古仏を、浄土真宗の本尊に転用したものと推測される。浄土真宗寺院の木仏本尊は、本願寺仏所で定め通りに制作されたものが下賜(かし)されることになっていたが、願い出て支障が無ければ自身が信仰してきた仏像も許可された。真宗寺院の木仏本尊にはこうした例がしばしばある。由来については今後の研究にまちたい。

両手先、両足先、表面の漆箔、光背、台座は後補と思われる。光背、台座の荘厳具は、丁寧に制作された本格的なもの。ただ江戸時代の蓮華座にはあまり見られない意匠が見られ、独特な装飾性が感じられる。あるいは明治期のものか。光背も台座も同時期。

以上、大阪くらしの今昔館(特別展図録)「商都大坂の豪商・加島屋 あきない町家くらし」より引用

②西本願寺門主裏書の掛軸

この掛軸を初めて見た時、ボロボロでゴワゴワに丸まっていて触ったら崩壊しそうでした。「ご先祖様のものでなかったら捨てていた」と思いました。その後、今昔館の調査で約360年前の貴重なものと判りました。

◆ 絹本著色方便法身像(保存修理)

〈作品について〉

裏書きから西本願寺第十三代良如上人(1612~1662,1630~1662門主在位)からの下賜品と判明する方便法身像(阿弥陀如来像)です。

本紙(絵の部分)は、絹に岩絵具と金泥、截金を用いて描かれており、これらを絹に接着している膠の強度が低下して剥落が進行しています。

絹に描かれた絵画は、表からだけではなく裏からも絵具で彩色が施されていることが多く、表の絵具が剥落して絹だけになっている箇所は、絹の目から裏の絵具の色が透けて見えている状態です。

(左)表絹本著色方便法身像 表側  (右)同 裏側

濃い青色に見える部分は、銅の成分が含まれた絵具を使っているため、酸化により裏打ちの紙の変色、強度低下を進行させています。

巻き解きの繰り返しにより折れが多数発生しており、このことが原因で、絵具の剥落が今後さらに進行する恐れもあります。

絵が描かれた絹に直接裏打紙が打たれ、さらに周囲の裂(きれ)とあわせて複数回の裏打ちが施されて掛軸に仕立てられています。その際に使用される糊は「小麦澱粉糊」で、おおむね100年経つと接着力が弱まったり、逆に全体が硬くなってしなやかさが失われたりし、さまざまな損傷を引き起こす原因となるため、日本の絵画はおよそ100年ごとに定期的に解体修理(裏打ちの打ち直し、仕立て直し)が行われてきました。

この作品は、江戸時代初期に制作されたあと、江戸時代末期から明治ごろに少なくとも一度は解体修理が行われています(その時に、裏書きが再使用された痕跡があります)が、そこから起算しても優に150年以上は経過していると思われ、今後絵を維持していくためには、解体修理が必要な時期をすでに迎えているといえます。

〈今回の本格的修理について〉

  • 絵具層の状態が危険であり、絹の両面に絵具層があることから、水をたくさん使用して短期間に裏打の取替、仕立て直しを行う一般的な方法では、絵の大切な表現が損なわれてしまう可能性があります。また、裏打紙はすでに絵や掛軸全体を保持する力を失ってしまっていることから、すべての裏打紙を取り除いて新たな手漉和紙に交換する必要があります。
  • 絵の表面を保護した上で、裏面の絵具を壊すことがないよう、少しずつ裏打紙を取り除いていくため、修理には半年以上の期間を必要とします。
  • 折れなどにより、絹自体がなくなってしまっている箇所には、補修絹(放射線照射により強度を弱めた補修専用の絹)をはめ込みます。
  • 周囲に付いている裂や金具は、絵に相応しい上質のもので、前回修理のときにも元のものを修理して使ったと思われますので、今回も、損傷している箇所を修理した上で再び使用します。
  • 将来の折れの発生を少しでも遅らせるため、軸を太く巻くための「太巻添軸」を作成し、新しい桐箱に納入します。
  • 裏書きは、前回修理では表装背面に貼り戻ししていましたが、前述のように、掛軸を保持するには強度が低下しているため、取り外して別に保存(散逸を防ぐため、本紙と同じ箱に納入)します。このことにより、作品と裏書きを並べて展示することも出来るようになります。

〈その他〉

本願寺第十七代法如上人(1707~1789、1743~1789門主在位)の下賜にかかるもう1幅の方便法身像についても、上記と全く同様の損傷が見られます。

以上、(株)光影堂様の修理所見より引用

廣岡家は西本願寺の有力門徒で、北御堂の講中総代でした。西本願寺の日記によると、初代の冨政はたびたび本願寺に参上し、季節の礼や節句の祝儀の進物を贈っています。本山から下賜された「方便法身像」(阿弥陀如来像)は、本願寺良如(1630~1662門主)が冨政(法名教西)に与えたものです。「廣岡氏系図」には冨政の妻、禄について「母は京西本願寺寂如様御腹揚徳院殿寂照様女也」としており、寂如とは兄妹であったと記しています。近年、禄(法名如意)が西本願寺の女官に宛てた書状も発見されました。冨政が延宝八年(1680年)に没したおりには、二代の正吉が本願寺に銀子二十貫目、金子100両を献上し、寂如が小広間で対面し返礼しています。更に元禄十五年(1702)の禄の三回忌には、寂如自身が読経しており、深い関係がうかがえます。廣岡家は江戸時代を通じて本願寺と強い絆で結ばれ、宝暦元年(1751)には西本願寺の学林(僧侶の教育機関)の講堂修復を支援し、天明八年(1788)の大火でも学林の再建に尽力しました。本願寺門主の和歌懐紙や書画が数多く残されているのはその表れと言えます。

以上、大阪くらしの今昔館(特別展図録)「商都大坂の豪商・加島屋 あきない町家くらし」より引用

◆ 学術研究への貢献

豪商「加島屋」が、歴史の表舞台に姿をあらわさなかったのは、その史実がこれまでに日の目をみなかったからです。しかし、今回のような仏像や掛軸などの美術品の他にも、ひな人形といった調度品、当時のことを記した執事の日誌など、実に多くの史料が廣岡家に現存しています。

こうした遺産は、もはや廣岡家個人の資産ではなく、日本史として貴重な資産であり、その学術研究のために共有されるべき文化財だと私は思っています。

実際に、この仏像と掛軸を修復するにあたり、書籍『豪商の金融史』を編集された神戸大学経済経営研究所准教授 高槻泰郎(たかつきやすお)先生から、書籍『豪商の金融史』の印税を修復費用に充ててほしい、との申し出を受けております。

しかし、それでも修復費用の全てまで賄えないことから、クラウドファンディングのプロジェクトとして立ち上げました。

◆ 応援メッセージ

研究者他、大勢の方々から応援メッセージをいただいております。廣岡家に残された資料の保存と研究に多くの先生方にご尽力いただき感謝申し上げます。

◆ 血を残さずに名を残す

祖父である10代目廣岡久右衛門の願いは「廣岡家を絶やすな」というものでした。しかし、残念ながら、今この祖父の思いを叶えることはできません。父も早くに亡くなり、私が嫁いだことで後を引き継ぐ者がいなくなったからです。

結婚当初は、子どもが生まれたら、廣岡家に養子に迎え入れてもらい「血を残す」ことも考えていましたが、残念ながら子には恵まれなかったことから現状に至ります。ただ、血は残せないとしても、「加島屋」の名を歴史的にかつ多くの方の記憶に残すことはできます。

2022年夏に開催した「大阪くらしの今昔館」の展示会場で、米切手243枚(神戸大学経済研究所に寄託分)を前に、高槻泰郎先生と。

そのような思いからも、クラウドファンディングのプロジェクトを立ち上げることで、「加島屋」の名を多くの方に知っていただく機会にしたいです。子孫としては、廣岡家が絶えても「廣岡家が残したモノ(経済と文化)」を通じて、多くの廣岡家ファンが誕生すれば幸いです。

歴史的遺産は、当時の暮らしや文化、思想、経済などありとあらゆる情報が詰まっています。その情報を紐解くことは、当時の歴史を振り返るだけでなく、「今」そして「これから」の時代を生きるためのヒントにもなり得るものだと思います。

廣岡家に伝わる遺産を守り伝承していく役割は、非常に貴重なことだと私は考えております。仏像や掛軸といった美術品だけでなく、ひな人形などの調度品も含めて当時の「豪商のくらし」を、それこそ文化財に指定して保存していくことを最終目標としております。

廣岡家代々より伝わるひな人形

はるか彼方から時間のつながりがあって「今」があります。そのつながりの証拠である歴史的遺産をこれから守っていきたいと思っています。祖父の願い「廣岡家の存続」は叶えられず、廣岡家は10代で絶えました。しかし、「加島屋」の名を歴史に残し、人々の記憶に残すことはできます。最後の子孫として、クラウドファンディングで多くの方に「加島屋久右衛門(廣岡家)」を知って頂きたいと思っています。

この思いにご賛同いただきましたら、温かいご支援を賜りますよう、どうぞよろしくお願いいたします。

※注:本文中に記載のある個人・団体様には、本プロジェクトの実施、ならびに、お名前・画像等の掲載については許可をいただいております。ただし、本プロジェクトとは無関係ですので、先方へのお問い合わせなどはご遠慮ください
※本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。

最新の活動報告

第1弾のクラウドファンディングは、2023年4月29日に終了いたしました。

皆様、ご協力ありがとうございました。活動報告はこちらからご覧ください。